港の倉庫街に、夜が沈んでいた。
潮の匂いと、鉄の錆びた臭いが混じる空気の中で、男たちは地面に転がっている。
誰一人、立ち上がろうとしなかった。
鳴海 廻は、その光景を数秒だけ見つめてから、視線を外した。
計算通りだった。
だが、見ていられなかった。
「……終わりです」
淡々とした声だった。
まるで、話し合いが一区切りついたかのように。
少し離れた場所で、久我 鉄平が拳を開く。
皮膚が裂け、関節が赤く腫れている。
だが、痛みよりも先に、重たい感触が残っていた。
人を殴った重さだ。
ジャラッ……
腰のウォレットチェーンが揺れ、金属音が夜に落ちた。
鉄平は、地面に倒れた男たちを見下ろし、低く息を吐く。
「……で、次はどうする」
廻は肩をすくめた。
「彼らは、今日あったことを話します。盛って、歪めて、勝手に怖がって」
「止めなくていいのか」
「止めません」
即答だった。
「事実は、いつも邪魔です。
恐怖は、殴らなくても増やせますから」
鉄平は、鼻で笑った。
「幽霊でも作る気か」
「もう、できてますよ」
廻はスマホを取り出し、画面を軽くタップする。
「今頃、“港で正体不明の二人組にやられた”って話が、どこかで流れ始めてます」
「二人?」
「いえ。噂の中では、もっと増えます」
廻は笑った。
だが、その笑顔は、どこか冷えていた。
「人は、見えないものほど怖がる。
だから、名前をつけるんです」
鉄平が、ちらりと視線を向ける。
「名前?」
「ええ」
廻は、夜の港を見渡した。
「境界線を越えてくる連中に対する、警告の名前です」
一拍、置いてから言う。
「――BORDER」
その言葉が、夜に溶けた。
鉄平は、しばらく黙っていたが、やがて短く答えた。
「……悪くねぇ」
二人は並んで歩き出す。
倉庫街の外れへ。
街の明かりが戻る方向へ。
ジャラッ……
チェーンの音が、再び鳴った。
それは、横濱の夜に刻まれた、
新しい“境界線”の名前だった。