第3話 境界線の名前

港の倉庫街に、夜が沈んでいた。

潮の匂いと、鉄の錆びた臭いが混じる空気の中で、男たちは地面に転がっている。

誰一人、立ち上がろうとしなかった。

鳴海 廻は、その光景を数秒だけ見つめてから、視線を外した。

計算通りだった。
だが、見ていられなかった。

「……終わりです」

淡々とした声だった。
まるで、話し合いが一区切りついたかのように。

少し離れた場所で、久我 鉄平が拳を開く。

皮膚が裂け、関節が赤く腫れている。
だが、痛みよりも先に、重たい感触が残っていた。

人を殴った重さだ。

ジャラッ……

腰のウォレットチェーンが揺れ、金属音が夜に落ちた。

鉄平は、地面に倒れた男たちを見下ろし、低く息を吐く。

「……で、次はどうする」

廻は肩をすくめた。

「彼らは、今日あったことを話します。盛って、歪めて、勝手に怖がって」

「止めなくていいのか」

「止めません」

即答だった。

「事実は、いつも邪魔です。
恐怖は、殴らなくても増やせますから」

鉄平は、鼻で笑った。

「幽霊でも作る気か」

「もう、できてますよ」

廻はスマホを取り出し、画面を軽くタップする。

「今頃、“港で正体不明の二人組にやられた”って話が、どこかで流れ始めてます」

「二人?」

「いえ。噂の中では、もっと増えます」

廻は笑った。

だが、その笑顔は、どこか冷えていた。

「人は、見えないものほど怖がる。
だから、名前をつけるんです」

鉄平が、ちらりと視線を向ける。

「名前?」

「ええ」

廻は、夜の港を見渡した。

「境界線を越えてくる連中に対する、警告の名前です」

一拍、置いてから言う。

「――BORDER」

その言葉が、夜に溶けた。

鉄平は、しばらく黙っていたが、やがて短く答えた。

「……悪くねぇ」

二人は並んで歩き出す。

倉庫街の外れへ。
街の明かりが戻る方向へ。

ジャラッ……

チェーンの音が、再び鳴った。

それは、横濱の夜に刻まれた、
新しい“境界線”の名前だった。