第10話 亡霊の正体

スマホが震えたのは、夜が一番静まる時間だった。

画面に表示された番号は、知らない。

それなのに、廻は出る前から分かっていた。

――来た。

通話ボタンを押すと、ノイズのない、よく通る声が流れ込んでくる。

「こんばんは、鳴海 廻くん。いや……“BORDER”の亡霊、かな?」

その呼び方だけで、胸の奥が冷たく締まった。

「用件は」

廻は感情を殺して答える。

相手は一瞬、笑った。

「急ぐなよ。君の過去の話をしようと思ってね」

耳元で、紙がめくられる音。

「横浜市立・港西中学。三年の冬に転校。理由は――家庭の事情。父親、鳴海 恒一。十年前に失踪」

廻の視界が、わずかに歪んだ。

「……それが?」

声は、かろうじて平坦だった。

「いやあ、懐かしい名前だと思ってね。“BORDER”を名乗るには、確認が必要だろう?」

確認――確認。

「君が作ったBORDERは、よく出来た嘘だ。だが本物は、昔この街にいた」

廻は黙った。

逃げ場は、もうない。

「鳴海 恒一。境界線を引いて、抗争を止めて、最後は――誰にも味方されずに消えた男」

廻の指が、わずかに震えた。

「君は、その息子だ」

事実だった。

否定しようのない、真実。

「だから分かるんだよ。君のやり方が。嘘で秩序を作り、恐怖で均衡を保つ。――血だ。完全に」

電話の向こうで、男は楽しそうに続ける。

「でもね、君は“本物のBORDER”じゃない」

その言葉が、刃物のように刺さった。

「君は名前を借りただけだ。父親の亡霊を、看板にしただけだ」

廻は、息を吐いた。

長く、静かに。

「……それで?」

問い返す声は、低かった。

「簡単な話だ。この事実を、街に流す」

廻の背中を、冷や汗が伝う。

「“幽霊の正体は、ただの二世だ”“親の名前でイキってるガキだ”そうなれば、BORDERは終わる」

沈黙。

その間に、廻は考えていた。

逃げ道。

反論。

嘘。

だが、どれも浮かばない。

「一人で来い」

男は淡々と言った。

「場所は、後で送る。君が本物かどうか、確かめようじゃないか」

通話が切れた。

廻は、しばらくその場に立ち尽くしていた。

胸の奥で、何かが崩れていく感覚。

――やっぱり。

自分は、借り物だった。

その時、背後で足音がした。

「……何だ、その顔」

鉄平だった。

廻は振り返らない。

「仕事です」

短く答える。

「嘘だな」

鉄平の声は、低い。

「お前、今――殴られる前の顔してる」

廻は、ゆっくりと目を閉じた。

言うべきか。

言わないべきか。

境界線が、揺れる。

「……鉄平」

初めて、名前を呼んだ。

「俺は、BORDERじゃない」

鉄平は黙っている。

「正確に言えば――本物じゃない」

廻は続けた。

「俺の父親が、昔そう呼ばれてただけです」

夜風が、二人の間を抜ける。

「だから?」

鉄平は言った。

短く、乱暴に。

廻は目を開けた。

「……バレたら、終わります」

「それで?」

「俺は、全部嘘でここまで来た」

鉄平は、少し考えるように顎を掻いた。

「なるほどな」

そして、笑った。

「じゃあよ」

廻が顔を上げる。

「本物になるしかねぇだろ」

その言葉に、廻の胸が跳ねた。

「嘘で始めたなら、最後まで嘘を貫け」

鉄平は拳を握る。

「それが、お前の戦い方だ」

廻は、初めて――震えが止まるのを感じた。

「……助かります」

小さく、そう言った。

境界線は、まだ消えていない。

だが今、越える覚悟だけは、確かにそこにあった。