スマホが震えたのは、夜が一番静まる時間だった。
画面に表示された番号は、知らない。
それなのに、廻は出る前から分かっていた。
――来た。
通話ボタンを押すと、ノイズのない、よく通る声が流れ込んでくる。
「こんばんは、鳴海 廻くん。いや……“BORDER”の亡霊、かな?」
その呼び方だけで、胸の奥が冷たく締まった。
「用件は」
廻は感情を殺して答える。
相手は一瞬、笑った。
「急ぐなよ。君の過去の話をしようと思ってね」
耳元で、紙がめくられる音。
「横浜市立・港西中学。三年の冬に転校。理由は――家庭の事情。父親、鳴海 恒一。十年前に失踪」
廻の視界が、わずかに歪んだ。
「……それが?」
声は、かろうじて平坦だった。
「いやあ、懐かしい名前だと思ってね。“BORDER”を名乗るには、確認が必要だろう?」
確認――確認。
「君が作ったBORDERは、よく出来た嘘だ。だが本物は、昔この街にいた」
廻は黙った。
逃げ場は、もうない。
「鳴海 恒一。境界線を引いて、抗争を止めて、最後は――誰にも味方されずに消えた男」
廻の指が、わずかに震えた。
「君は、その息子だ」
事実だった。
否定しようのない、真実。
「だから分かるんだよ。君のやり方が。嘘で秩序を作り、恐怖で均衡を保つ。――血だ。完全に」
電話の向こうで、男は楽しそうに続ける。
「でもね、君は“本物のBORDER”じゃない」
その言葉が、刃物のように刺さった。
「君は名前を借りただけだ。父親の亡霊を、看板にしただけだ」
廻は、息を吐いた。
長く、静かに。
「……それで?」
問い返す声は、低かった。
「簡単な話だ。この事実を、街に流す」
廻の背中を、冷や汗が伝う。
「“幽霊の正体は、ただの二世だ”“親の名前でイキってるガキだ”そうなれば、BORDERは終わる」
沈黙。
その間に、廻は考えていた。
逃げ道。
反論。
嘘。
だが、どれも浮かばない。
「一人で来い」
男は淡々と言った。
「場所は、後で送る。君が本物かどうか、確かめようじゃないか」
通話が切れた。
廻は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
胸の奥で、何かが崩れていく感覚。
――やっぱり。
自分は、借り物だった。
その時、背後で足音がした。
「……何だ、その顔」
鉄平だった。
廻は振り返らない。
「仕事です」
短く答える。
「嘘だな」
鉄平の声は、低い。
「お前、今――殴られる前の顔してる」
廻は、ゆっくりと目を閉じた。
言うべきか。
言わないべきか。
境界線が、揺れる。
「……鉄平」
初めて、名前を呼んだ。
「俺は、BORDERじゃない」
鉄平は黙っている。
「正確に言えば――本物じゃない」
廻は続けた。
「俺の父親が、昔そう呼ばれてただけです」
夜風が、二人の間を抜ける。
「だから?」
鉄平は言った。
短く、乱暴に。
廻は目を開けた。
「……バレたら、終わります」
「それで?」
「俺は、全部嘘でここまで来た」
鉄平は、少し考えるように顎を掻いた。
「なるほどな」
そして、笑った。
「じゃあよ」
廻が顔を上げる。
「本物になるしかねぇだろ」
その言葉に、廻の胸が跳ねた。
「嘘で始めたなら、最後まで嘘を貫け」
鉄平は拳を握る。
「それが、お前の戦い方だ」
廻は、初めて――震えが止まるのを感じた。
「……助かります」
小さく、そう言った。
境界線は、まだ消えていない。
だが今、越える覚悟だけは、確かにそこにあった。