第4話 聖域の崩壊

横濱の中華街に近い裏路地に、古い中華食堂があった。

派手な看板もない。
観光客も、地元の不良も、港湾連合の下っ端も。

腹が減れば、誰でも入る。

そして――
この店には、ひとつだけ暗黙のルールがあった。

「店の中では、喧嘩をしない」

誰が決めたわけでもない。
だが、そのルールは長い間、守られてきた。

それが、この街の“緩衝地帯”だった。

夜。

店内には、油の匂いと、ラーメンの湯気が漂っている。

カウンターの向こうで、店主の男が無言で鍋を振っていた。

そこに――
乱暴に扉が開いた。

「おい」

低く、荒い声。

数人の男たちが、土足のまま店に入ってくる。

店内の空気が、一瞬で凍った。

常連の一人が、小さく舌打ちする。

「……ここでやる気かよ」

店主が顔を上げた。

「悪いが、ウチじゃ――」

言い終わる前に。

鈍い音が響いた。

男の拳が、店主の顔面に叩き込まれる。

「ッ……!」

鍋が床に落ち、スープが飛び散る。

店主は、カウンターに叩きつけられ、そのまま崩れ落ちた。

「ルール? 知るかよ」

殴った男が、吐き捨てる。

「ここは港湾連合のシマだ」

誰も、動けなかった。

喧嘩を止める勇気も、逃げる余裕もない。

ただ――
何かが壊れたことだけは、全員が分かった。

翌日。

その話は、すぐに広まった。

「あの店で、やられたらしい」

「店主が殴られたってよ」

「もう、どこも安全じゃねぇな」

鳴海 廻は、その噂を聞いた瞬間、足を止めた。

胸の奥が、ひどく冷えた。

「……違う」

久我 鉄平が、低く呟く。

「あいつらが、越えたんだ」

拳を握る。

あの日と同じ感覚が、腕を這い上がってくる。

雨の夜。
止められなかった拳。
守れなかった背中。

「まただ……」

鉄平の声は、震えていた。

廻は、何も言わなかった。

ただ、目を伏せる。

自分が引いた“嘘の境界線”のせいで、
もともとあった“平和の境界線”が壊された。

その事実が、胸に刺さる。

沈黙の中で、鉄平が言った。

「……やるぞ」

それは、確認ではなかった。

宣言だった。

廻は、ゆっくりと息を吐く。

そして、顔を上げた。

その目には、迷いよりも、
はっきりとした怒りが宿っていた。

「はい」

短く、答える。

横濱の夜は、静かだった。

だがその静けさは、
次の衝突の前触れにすぎなかった。