横濱の中華街に近い裏路地に、古い中華食堂があった。
派手な看板もない。
観光客も、地元の不良も、港湾連合の下っ端も。
腹が減れば、誰でも入る。
そして――
この店には、ひとつだけ暗黙のルールがあった。
「店の中では、喧嘩をしない」
誰が決めたわけでもない。
だが、そのルールは長い間、守られてきた。
それが、この街の“緩衝地帯”だった。
夜。
店内には、油の匂いと、ラーメンの湯気が漂っている。
カウンターの向こうで、店主の男が無言で鍋を振っていた。
そこに――
乱暴に扉が開いた。
「おい」
低く、荒い声。
数人の男たちが、土足のまま店に入ってくる。
店内の空気が、一瞬で凍った。
常連の一人が、小さく舌打ちする。
「……ここでやる気かよ」
店主が顔を上げた。
「悪いが、ウチじゃ――」
言い終わる前に。
鈍い音が響いた。
男の拳が、店主の顔面に叩き込まれる。
「ッ……!」
鍋が床に落ち、スープが飛び散る。
店主は、カウンターに叩きつけられ、そのまま崩れ落ちた。
「ルール? 知るかよ」
殴った男が、吐き捨てる。
「ここは港湾連合のシマだ」
誰も、動けなかった。
喧嘩を止める勇気も、逃げる余裕もない。
ただ――
何かが壊れたことだけは、全員が分かった。
翌日。
その話は、すぐに広まった。
「あの店で、やられたらしい」
「店主が殴られたってよ」
「もう、どこも安全じゃねぇな」
鳴海 廻は、その噂を聞いた瞬間、足を止めた。
胸の奥が、ひどく冷えた。
「……違う」
久我 鉄平が、低く呟く。
「あいつらが、越えたんだ」
拳を握る。
あの日と同じ感覚が、腕を這い上がってくる。
雨の夜。
止められなかった拳。
守れなかった背中。
「まただ……」
鉄平の声は、震えていた。
廻は、何も言わなかった。
ただ、目を伏せる。
自分が引いた“嘘の境界線”のせいで、
もともとあった“平和の境界線”が壊された。
その事実が、胸に刺さる。
沈黙の中で、鉄平が言った。
「……やるぞ」
それは、確認ではなかった。
宣言だった。
廻は、ゆっくりと息を吐く。
そして、顔を上げた。
その目には、迷いよりも、
はっきりとした怒りが宿っていた。
「はい」
短く、答える。
横濱の夜は、静かだった。
だがその静けさは、
次の衝突の前触れにすぎなかった。