第9話 値段のつかない男

雨は、いつの間にか上がっていた。

港から少し離れた幹線道路沿い。
黒塗りの高級車が、静かに路肩へ止まる。

エンジンは切られない。

それだけで、場違いな存在感があった。

久我 鉄平は、歩道橋の下で立ち止まった。

「……用件は?」

車の後部座席の窓が、音もなく下がる。

中には、スーツ姿の男。

第八話で噂に上がった、紅門の幹部だった。

「君が、久我鉄平だね」

落ち着いた声。

威圧も、感情も、そこにはない。

「時間は取らせない。交渉だ」

助手席から、アタッシュケースが差し出される。

蓋が開く。

中には、きれいに揃えられた札束。

「これで、いくらだ」

鉄平は、ちらりと見るだけだった。

「……話はそれだけか」

男は、構わず続ける。

「君の過去は調べた。
無駄な喧嘩で、仲間を失った」

「今も、使われているだけだ」

鉄平の眉が、わずかに動く。

「鳴海廻。
あの少年は、君を駒として使っている」

「いずれ、切り捨てる」

「それが、頭脳派のやり方だ」

男は、静かに畳みかける。

「こちらに来い。
借金も、因縁も、すべて清算する」

「君の拳には、それだけの価値がある」

沈黙が落ちる。

鉄平は、しばらく何も言わなかった。

やがて、口を開く。

「……俺はな」

低く、はっきりした声だった。

「金を見せられたことは、何度もある」

男は、黙って聞いている。

「だが――」

鉄平は、アタッシュケースに視線すら向けず、言った。

「俺は、金を見せなかった」

一拍。

「代わりに――喧嘩の売り先をくれた」

男の表情が、初めてわずかに歪む。

「後悔するぞ」

鉄平は、歩き出しながら答えた。

「もうしてる」

ジャラッ……

ウォレットチェーンの音が、夜に響く。

黒塗りの車は、その背中を見送るしかなかった。

その頃。

鳴海 廻のスマホに、短い通知が届く。

「交渉、失敗」

廻は、それを見て、静かに息を吐いた。

「……ありがとうございます」

画面の向こうには、いない相棒へ。

だが同時に、分かっていた。

紅門は、次の手を打つ。

金が通じないと知った今――

次に狙われるのは、
鳴海廻そのものだということを。