雨は、いつの間にか上がっていた。
港から少し離れた幹線道路沿い。
黒塗りの高級車が、静かに路肩へ止まる。
エンジンは切られない。
それだけで、場違いな存在感があった。
久我 鉄平は、歩道橋の下で立ち止まった。
「……用件は?」
車の後部座席の窓が、音もなく下がる。
中には、スーツ姿の男。
第八話で噂に上がった、紅門の幹部だった。
「君が、久我鉄平だね」
落ち着いた声。
威圧も、感情も、そこにはない。
「時間は取らせない。交渉だ」
助手席から、アタッシュケースが差し出される。
蓋が開く。
中には、きれいに揃えられた札束。
「これで、いくらだ」
鉄平は、ちらりと見るだけだった。
「……話はそれだけか」
男は、構わず続ける。
「君の過去は調べた。
無駄な喧嘩で、仲間を失った」
「今も、使われているだけだ」
鉄平の眉が、わずかに動く。
「鳴海廻。
あの少年は、君を駒として使っている」
「いずれ、切り捨てる」
「それが、頭脳派のやり方だ」
男は、静かに畳みかける。
「こちらに来い。
借金も、因縁も、すべて清算する」
「君の拳には、それだけの価値がある」
沈黙が落ちる。
鉄平は、しばらく何も言わなかった。
やがて、口を開く。
「……俺はな」
低く、はっきりした声だった。
「金を見せられたことは、何度もある」
男は、黙って聞いている。
「だが――」
鉄平は、アタッシュケースに視線すら向けず、言った。
「俺は、金を見せなかった」
一拍。
「代わりに――喧嘩の売り先をくれた」
男の表情が、初めてわずかに歪む。
「後悔するぞ」
鉄平は、歩き出しながら答えた。
「もうしてる」
ジャラッ……
ウォレットチェーンの音が、夜に響く。
黒塗りの車は、その背中を見送るしかなかった。
その頃。
鳴海 廻のスマホに、短い通知が届く。
「交渉、失敗」
廻は、それを見て、静かに息を吐いた。
「……ありがとうございます」
画面の向こうには、いない相棒へ。
だが同時に、分かっていた。
紅門は、次の手を打つ。
金が通じないと知った今――
次に狙われるのは、
鳴海廻そのものだということを。